自動車評論家・清水草一が切り込む!メディアが隠す業界の真相
清水 草 一という書き手ほど、日本のクルマ好きを熱狂させ、同時に自動車メーカーの広報担当者を戦慄させてきた論客は他にいない。メーカーの歓心を買うような美辞麗句が氾濫するメディア空間を軽やかにすり抜け、自らの銀行口座を削って超高級輸入車を購入しては、その維持費と故障にのたうち回る様を晒す。それは単なる試乗インプレッションの枠を遥かに超えた、人間の見栄と欲望を鋭利に解剖する極上のドキュメントだった。
激変の波に洗われる現代のモビリティ社会において、評論壇上の清水 草 一が放つ毒舌と乾いたユーモア、そして底知れぬ機械への偏愛は、かつてないほど強烈な存在感を放っている。提灯記事を嫌悪し、常に一人のユーザーとしてステアリングを握り続ける彼の言動には、カタログスペックをなぞるだけの言説を無力化する圧倒的なリアリティが宿る。
師・徳大寺有恒から受け継いだ「怒りと美学」の系譜

日本の自動車評論の歴史を語る上で、稀代の批評家・徳大寺有恒の存在を避けて通ることはできない。『間違いだらけのクルマ選び』で既得権益化していた自動車メーカーとメディアの癒着に鉄槌を下した巨星の背中を、清水草一は誰よりも間近で見つめていた。
徳大寺が纏っていた英国紳士的なエレガンスや文明論的アプローチに対し、清水が選んだのは徹底して泥臭い「身銭を切る当事者」のポジションだった。しかし、その根底に流れる哲学は驚くほど純粋に師のDNAを継承している。メーカーの顔色を伺うのではなく、ハンドルを握る市井のドライバーの側に立つこと。日本の自動車ジャーナリズムが失いかけた気骨は、スタイルを変えながら彼の手によって確かに受け継がれた。
バブルの狂気と『その時フェラーリを買ってしまった』が変えた時代

1990年代初頭、日本中が狂乱のバブル経済の後遺症に喘いでいた頃、講談社から刊行された1冊の書籍が文壇とクルマ界隈に激震を走らせた。『その時フェラーリを買ってしまった』である。年収や貯蓄に見合わない無謀極まりないローンを組み、跳ね馬を手に入れた男のドタバタ劇は、単なるカーマニアの手記ではなかった。
過剰なプライド、故障への恐怖、ガソリンスタンドで感じる奇妙な全能感。それらを緻密かつ冷徹に描写した筆致は、優れたノンフィクション文学として今なお読み継がれている。フェラーリという記号に憑りつかれた人間の心理を描き切ることで、清水草一はカーガイのカリスマとしての地位を不動のものにした。
メディア非公開の辛口批評!激変する2026年自動車界の内幕と真相

いま、世界の自動車産業は未曾有の過渡期に直面している。急速なEVシフト推進の掛け声が世界中で響き渡る一方、インフラの限界やリセールバリューの暴落、バッテリー劣化問題といった「不都合な現実」が次々と露呈し始めた。多くの大手メディアがスポンサーへの配慮から口を噤む中、清水草一の筆鋒は容赦なくその核心を突く。
「環境性能の看板を掲げながら、数年で使い捨てられる巨大なバッテリー車を量産することが本当にエコなのか」。彼が投げかける問いは、テクノロジーの進化を手放しで礼賛する風潮に冷水を浴びせる。長年フェラーリなどの内燃機関の極致を愛し、その官能性と機械的価値を熟知しているからこそ、デジタルガジェット化する最新車両の「魂の欠落」を誰よりも雄弁に暴き出すことができるのだ。利害関係に縛られない彼独自の取材網がもたらすインサイドストーリーは、耳触りの良いプレスリリースに欺かれがちな一般ユーザーにとって最後の防波堤となっている。
「首都高の謎」を解き明かす土木と都市への深いまなざし
清水草一の関心は、金属の塊であるクルマそのものにとどまらない。クルマが疾走する舞台、すなわち道路や巨大インフラに対する異様なまでの執着も彼の真骨頂だ。三栄などの自動車専門メディアを中心に発表された『首都高の謎』をはじめとする一連の著作群は、土木工学と交通心理学を融合させた唯一無二のフィールドワークである。
なぜこのジャンクションで毎日のように渋滞が発生するのか。複雑怪奇に入り組んだ首都高速道路の設計思想には、どのような歴史的妥協と技術者の執念が隠されているのか。自ら走り込み、計測し、現場の空気を吸いながら解読するアプローチは、単なる交通評論の枠組みを軽々と踏み越え、都市論としての深みを湛えている。
MJブロンディの看板とYouTube・Web空間への越境
活字媒体の黄金期を知るベテランでありながら、清水はデジタルの荒波にもいち早く適応した。かつて『MJブロンディ』のペンネームで読者からの無茶な相談にユーモアたっぷりに答えていた頃の軽妙さは、ベストカーWebやYahoo!ニュース エキスパートといった現代のWebプラットフォームでもいささかも色褪せていない。
さらに近年ではYouTubeをはじめとする動画領域にも進出。活字で培われた鋭利な語り口と、どこか自虐的で親しみやすいキャラクターが融合した動画コンテンツは、活字離れが進む若い世代の車好きをも虜にしている。時代がどれほど移り変わろうとも、本質を突く言葉の強さはデバイスの差を超越することを彼は身をもって証明し続けている。
忖度だらけの時代に抗う「生身のクルマ愛」の行方
自動運転技術やコネクテッドカーの普及により、クルマが「移動のための家電」へと変貌を遂げつつある現代。効率性と安全性が最優先される世の中で、あえて手のかかる機械を愛し、エンジンの鼓動に胸を高鳴らせる行為は、時代錯誤の道楽と見なされるかもしれない。
だが、だからこそ清水草一の言葉が必要とされるのだ。彼が語るのは、損得勘定を超えた先にある「人間と機械の濃密な対話」である。忖度だらけのジャーナリズムがどれほど跋扈しようとも、身銭を切り、失敗を笑い飛ばし、愛車とともに人生を駆け抜ける一人の表現者がいる限り、クルマ文化の灯火が消えることは決してない。 (出典: 清水 草 一(Yahoo!ニュース))