楽園の裏に潜む毒ガスと命の危機 うさぎの島・大久野島の光と影
うさぎ の 島として瀬戸内海に浮かぶ周囲約4.3キロの小さな孤島が、いま世界の観光地図で特異な引力を放ち続けている。広島県竹原市の忠海港からフェリーに揺られて約15分。タラップを降りた瞬間、無数の愛らしい耳が一斉に揺れ、足元へと駆け寄ってくる。視界を埋め尽くす毛並みと愛嬌。だが、この島に一歩深く踏み入れた者が目にするのは、微笑ましい楽園の姿だけではない。潮風に削られた赤茶色の廃墟群、そして鼻孔をかすめる歴史の澱。ここは、癒やしと生々しい戦争の記憶が隣り合わせで息づく場所だ。
かつて陸軍の秘密兵器製造拠点として地図から抹消されていた歴史を持つが、現代のデジタル空間においてうさぎ の 島はまったく異なる文脈で消費されている。国内外から引きも切らず押し寄せる旅行者たち。彼らの多くはスマートフォンの画面に映る愛らしい姿に導かれてやって来る。しかし、島内を隈なく歩けば、ガイドブックの美辞麗句からは零れ落ちてしまう過酷な生態系の軋みと、歴史の継承をめぐる複雑な現実が否応なく突きつけられる。
世界を魅了したバズの正体とインバウンドの熱狂

大久野島が国際的な脚光を浴びた契機は、極めて現代的な現象だった。2010年代半ば、YouTubeをはじめとする動画プラットフォーム上で、観光客が大量のウサギに追いかけられる動画が爆発的に拡散。人気YouTuberのクリス・ブロード(Chris Broad)氏による旅番組『Abroad in Japan』や各種SNSで紹介されたことで、その存在はまたたく間に世界中の知るところとなった。
さらに近年では、Netflixなどのグローバル配信プラットフォームで日本の地方やユニークなカルチャーを特集するドキュメンタリーが定着したことも追い風となった。欧米やアジア圏からの個人旅行者が激増。日本のインバウンド観光産業が急速な回復と拡大を見せるなか、大久野島はその象徴的なデスティネーションとして定着した。港に降り立つ外国人観光客の手には、キャベツやペレットの袋。誰もが「ウサギまみれ」になる体験を求め、シャッターを切り続ける。
消された島の記憶:毒ガス工場跡が語るダークツーリズムの系譜

しかし、時計の針を100年近く巻き戻せば、この島は「ウサギの楽園」とは対極の暗闇に包まれていた。1929年から第二次世界大戦終結にかけて、大久野島には旧日本陸軍の毒ガス製造工場が置かれていた。マスタードガスやルイサイトといった国際条約で禁止されていた化学兵器が極秘裏に製造され、その存在を隠蔽するために当時の陸地測量部が発行する地図から島そのものが完全に消去されたのである。
島内を巡ると、鬱蒼とした木々の合間に巨大な発電所跡や毒ガス貯蔵庫跡が異様な威圧感を放ちながら口を開けている。凄惨な労働環境と被害の歴史を今に伝える「大久野島毒ガス資料館」には、当時の防護服や製造器具、工員たちの手記が保存展示されており、訪れる者に重い沈黙を強いる。かつてドキュメンタリー映画『毒ガスの島』が告発し、NHK『新日本風土記』などでも静かに語り継がれてきたこの二面性。いまやこの島は、単なるリゾート地ではなく、人類の負の遺産を直視するダークツーリズムの重要拠点としても世界的な関心を集めている。
増殖と淘汰のジレンマ:外来種「アナウサギ」が直面する過酷な生息環境

現在島内に生息しているウサギたちは、かつて毒ガス実験に使われていた個体の生き残りではない。戦後、島が無人化したのちに小学校で飼育されていた数羽が放たれ、天敵のいない環境下で爆発的に繁殖した外来種のアナウサギ(Oryctolagus cuniculus)の子孫たちだ。
アナウサギは本来、地中深くに複雑な巣穴を掘って暮らす習性を持つ。だが、限られた島土のなかで過密状態が生じれば、必然的に環境破壊と個体間闘争が勃発する。環境省や島内唯一の宿泊施設である休暇村大久野島の周辺では、餌を巡る激しい小競り合いが日常茶飯事だ。耳がちぎれ、皮膚病を患い、あるいは観光客が落とした人間の食べ物を口にして消化器不全を起こす個体も少なくない。可愛らしさの裏側にあるのは、野生動物としての剥き出しの生存競争と、人為的な給餌が生み出した過酷な現実である。
【独自取材】ガイドブックには載らない大久野島2026年の実態
現在の島内を取材すると、観光ブームの波に隠れていた構造的課題が浮き彫りになってくる。観光客の数は完全にピーク水準を取り戻し、週末ともなれば島内は歓声に包まれる。だが、一般社団法人竹原市観光協会や関係者が直面しているのは、増えすぎたウサギの健康管理と、観光客への啓発という終わりなき現場の苦悩だ。
「ウサギが好きだからこそ、良かれと思って大量の野菜を持ち込む方が後を絶ちません。しかし、食べ残された野菜が腐敗して害虫を呼び、ウサギたちが不衛生な環境で病気にかかってしまう悪循環が起きています」と現地の案内スタッフは語る。エコツーリズムとしての持続可能性を模索する声が高まる一方で、SNS映えを狙う一部の身勝手な振る舞いは依然として後を絶たない。島を覆う熱気と、現場が抱える疲弊。このギャップこそが、現在のリアルな姿なのだ。
渡航前に知るべき最新ルールとマナー:命を守るための鉄則
大久野島を訪れる旅行者が、悲劇の加担者にならないために厳守すべきルールが存在する。島内のウサギはペットではなく、鳥獣保護管理法のもとで生きる野生動物だ。休暇村大久野島や行政機関が提示する以下のガイドラインは、渡航前に必ず頭に叩き込んでおく必要がある。
まず、抱きかかえる行為の厳禁。アナウサギの骨は非常に脆く、暴れて落下するだけで骨折や内臓破裂を起こし、命を落とす。次に、道路上や建物の出入口付近での給餌禁止。送迎バスや自転車との接触事故が頻発しているためだ。また、持ち込んだ餌の残りは必ず持ち帰ること。パンやお菓子などの加工食品、ネギ類など中毒を起こす植物を与えることは厳しく禁じられている。さらに、島内には水場が限られているため、設置された給水トレイに新鮮な水を入れるボランティア的配慮が何より求められている。
観光の消費から共生へ:瀬戸内の小島が問いかける持続可能な未来
大久野島は今、大きな転換点に立たされている。毒ガスの記憶を伝えるダークツーリズムと、野生動物との触れ合いを目的とするエコツーリズム。この一見かけ離れた二つの要素は、「人間がいかに自然や他者を支配し、過ちを犯してきたか」という一点において深く交差している。
動画を1本スクロールして消費するような浅い観光から、島が刻んできた歴史の傷痕と生命の重みを丸ごと受け止める旅へ。フェリーの甲板から遠ざかる島影を見つめるとき、訪れた者が胸に抱くべきは、ただ「可愛かった」という刹那の感想だけではないはずだ。この小さな島が投げかける問いは、私たちがこれからの観光とどう向き合うべきかという、極めて重いレッスンそのものである。 (出典: うさぎ の 島(Yahoo!ニュース))